4月

                                                                         4月のやぎ の歌

                                                                          風のかたちが見えるよ
                                                                      さくらの花びら身につけて
                                                                      小鳥がさわぐよ 愛する人を見つけて
                                                                     ながい昼さがり
                                                                     ヤギの小屋にはヤギひとり
                                                                       夜も昼もヤギひとり
                                                                      午後のひざしがメラン
                                                                       わたしの足音コリィ
                                                                   流れる小川のような
                                                                    メランコリィ  
 
沼の娘
 山ザクラの白い花が散って、水がトロッとしてきました。サクラは芽ぶいたばかりの草の葉の味を思い出して口の中にツバがわいてきました。
 「もう、山道は黄緑色になりましたか。」
 イチョウの木は背伸びするようにこずえを風に揺らしました。
 「黄緑色とは若草のこと、草が食べたいということかね。なるほど、はっきり言うとものほしそうになるから、そう言わないのはなかなか礼儀を心得ているヤギだ。だが、おまえの頭は直接おなかにくっついているようだね。うん、今年は草の勢いがいいようだ。おまえさんのおなかの偉大な暗闇においしい草がどっさりつめこまれますように。おや、ハンの木がなんか言っておるぞ。」
 木の話はゆったりしているので、たとえヤギでも聞いていてつかれます。おおよそ、こんなことを5分もかけて話すのです。しかし、ぼんやりと干し草をかみ直していたサクラは最後の言葉がちょっと気になりました。
 木は風にのせて言葉をおくります。風も気まぐれです。
 30分もたってイチョウの木がこんなことを言いました。
 「ぬまのむすめが……めをさました……そうだ。」

 サクラが聞き返そうとした時、足音がひびいて、3年生のカツラの小さい顔が小屋をのぞきこみました。
 「サクラはいいな、算数がなくって。わたし、わり算わからないよ。どうしたらいいだろう。だって2でわるとなんでも半分になるなんてへんだよ」
 ヤギのひとみが丸くなりました。ふだんは眠そうな四角いひとみなのです。
 「かけ算なら2ケタだってできるんだよ。」
 サクラはベッドの上にお行儀悪く横すわりをしています。前足を折って、後足で大きなおなかを支えて、ベッドにはりつくようにねころんでいます。
 「わたし算数よりダンスの練習したいな、わたしアイドルになるんだよ。テレビに出るんだ」
 授業のはじまるチャイムはさっき鳴りました。早く教室に帰らないと先生にしかられる、さくらは心配になってベーと鳴きました。
 「また夕方くるよ、キャベツの葉っぱもってくるね、バイバイ。」
 校庭にもヤギ小屋にも子どもの姿がなくなって、かくれていた鳥や虫たちが草のかげ、葉のかげからあらわれました。
 「沼の娘ってなんだろう」
 いちょうの木が重々しく言いました。
 「春になると谷戸の水があたたまる、するとそれまで凍っていた影が浮かんできていくつも集まってだんだん形になる、これは与えるものではない求めるものだ。沼の娘のさそいには気をつけたがよい」
 「ヤギもさそいにくるのかな」
 よくわからない話なので、とりあえず聞いてみました。返事はありませんでした。
 カツラはヤギ小屋の前に一番長くいる子どもの一人です。放課後、塾の始まるまでの長い時間をどこかですごさなくてはなりません。
 「アイドルになったらサクラにもサインしてあげるね。アイドルってかっこいいんだよ。算数できなくてもアイドルになれるよね」
 サクラもわり算は苦手なので、そうですというように強くベーと鳴きました。
 まだ午後の浅い時間ですが、谷戸の奥の沼はしんと静まっています。水面に浮かんだサクラのはなびらが少しゆれて、ぼんやりとした黒い影が現れ、だんだん色が濃くなって形をつくっていきました。煙のようなボーとした影は形を定めないまま池から浮かびだし、小川に入り流れる水の上をすべって、まだ芽吹いていないアシの間をゆっくり下っていきました。 

 裏門の所でカツラは人の気配を感じてふりかえりました。
 「カツラさんでしょう」
 カツラはふりかえって、まぶしそうに目をほそめました。この人はアイドルだ、カツラはひと目見てそう思いました。服も顔も仕草も、言葉づかいも笑い方もカツラの思っているアイドルそのものです。
 「わたしのコンサートに来てくれないかな、これチケット、1枚しかないんだ」
 カツラはすごく得した気分になりました。
 「でも、わたし1人ではバスにのれないんだよ」
 「だいじょうぶ、コンサートっていってもステージはすぐ近くだし、本当のお客はあなた1人なのよ」
 「なんだ、それならいいや、でも8時までに家に帰れるかな」
 「オッケイ、やくそくする」
 2人はふわっと風に乗るように歩いて、沼の岸にすっきり立つハンの木の下に来ました。
 「準備する間、すこし待っていてね」
 ふと眠りこんだのでしょうか、あたりはうす暗くなっていました。空には昼間、ワタアメのようにおいしそうにみえたやわらかい雲が星の光をかすめながら、ゆっくり流れています。夕方、ぼんやりかすんでいたまん丸の月が天のまんなかで白く光っています。
 カツラは、なんで自分がここにいるのかちょっとわからなくなって、キョロキョロしましたが、すぐに沼の娘が目の前にあらわれました。銀色に見えるサラサラしたドレスを身につけています。ステージのように、そこだけ明るく見えます。ハンの木の下で沼の娘は歌い始めました。最初は小さく、つぶやくような語りが続きます。その時、ポチャンと水の音が聞こえて、それが合図のように声が次第に高くなりました。カツラは歌声が体のシンに響いてくるのを感じました。
 それは古い物語のようです。言葉はよくわかりませんが、静かな暮らしの中に災いが生まれて、不安と悲しみがひろがっていくのです。
 少しずつハンの木のまわりに観客が集まりました。じっと動かず目だけが生き生きとしているのはウサギのようです。一人だけポツンと離れて、すみっこからあこがれたように見あげているのはタヌキのようです。歌は力強く激しくなりました。戦いの場面のようです。子ネズミの兄弟はソワソワしてたがいに手をにぎりあっています。武器がきらめき、炎が野山や村を焦がします。沼の娘は厳しい顔となり、衣装からも鋭く近寄りがたい光を放っているようです。カツラのまわりには森の生き物だけでなく夜、眠らずにさまよう影だけの物たち、木や石や水や風に宿るタマシイたちが集まっています。
 夜空をすべるようにミミズクが飛んできました。
 「沼の娘が歌っている。人間の女の子が聞いている。なにか起きるかもしれない」
 サクラは飛び起きました、しかし日が暮れると眠ってしまうイチョウの木はピクとも動きません。
 「どんな女の子、何が起きるの、それでどうなるの、どうしたらいい」
 すごくあわてた言い方をしてしまいましたが、ミミズクもまけずにせっかちです。
 「髪の毛をたばねている、沼にとじこめる、沼の娘の娘にする、自分で考えな」
 どうすればいいのでしょう、小屋にはカギがかかっていて外には出られません。

 沼の娘がステージから降りてカツラのわきに立ちました。優雅にカツラの手をとるとステージに向かって歩き出しました。カツラはうっとりしてもう何も考えていません。沼の娘はカツラを見おろしてニッコリ笑いました。鳥や虫たちの澄んだ声、魚たちの軟らかな身のこなし、ヘビの妖しい緑色の目、木々の深い知恵、なににもまして人間の体がほしかったのです。すらりとした手足、サラサラした髪、どんなやわらかい動きもできる体さえあればと沼の娘は願っていました。カツラの姿だったら大人も子どもも好きになってくれるでしょう。カツラのタマシイを沼のハンの木の根元にしまっておいて沼の娘は人間のアイドルになろうとしていたのです。
 サクラは沼の方に向いてベーと鳴きました。声はずいぶん遠くまで届きました。もう一回ベーと。もう一回ベーと。沼の娘の唄に雑音が入り始めました。
 美しい花園に乙女は……ベー
 風が頬にふれてかぐわしき……ベー
 金の指輪は……ベー 
 輝く宝石……ベー ベベベー
あんまりうるさいのでカツラも目を開きました。
「キャベツの匂いがする」
 サクラが言いました。
「コウモリ頼むぞ」
 コウモリは新幹線より速く沼に飛んでいって超音波を出しながらエサをつかまえはじめました。人間の耳には聞こえませんが虫にはキーと響くおそろしい音です。たちまち沼の娘の体がくずれはじめました。コウモリは自由に沼の娘の体を突き抜けて飛んでいきます。山から吹きおりる風が娘の黒い影をただの煙に変えていきます。
 ああ美しい春よベーベーキーキー
 わたしの思いはベーベーキーキー
 ゆめのまにベーベーキーキー
 心がベーベーキーキー
 たベーベーキーキー
 かベーベーキーキー
 ベーベーキーキー
 「たいへんだ、早く帰らないとママが心配する」
 カツラはミミズクのてらす光とサクラの呼び寄せる力とで森を走りぬけ学校をつきぬけてあっというまに家につきました。ママはまだ帰っていませんでした。

 「さくら、わかったよ、わり算ってね、ジュースなんだよ」
 また、算数の話なので、さくらはムーと声を出しました。
 「1パイを2人で分けると半分ずつ、10人でわけるとちょっとずつ10分の1っていうんだよ、3バイを2人でわけると1ぱいずつで1パイのこる、かんたんだよ」
 よく分からないので苦しまぎれに、また、ムーと言いました。干し草だったら太いのもあるし細いのもあるので、きちんと2つに分けることなんかできません。ちょっとずつ、というのもよくわかりません。
 「10パイを4人で分けると2ハイずつで2はいあまる、それをもっと分けると……さくら、しっかり聞きなさい。わたしは算数の先生なんだから。そうだ、わたしアイドルやめて先生になるよ。算数の分からない子に教えてやるんだ」
 カツラが算数好きになってよかったな、しかし、さくらは沼の娘にひどいことをしたのではないかと思い、心配になりました。
 「沼の娘はどうしたんだろうね」
 おそるおそるイチョウの木に聞いてみました。  
 「来年になったら、また、あらわれる、それまでにおまえは少しかしこくなる」
 さくらはちょっと安心しましたが、おおきなお世話だと思って言いました。
 「わたしの歌だってなかなかのものですよ」
 イチョウはめずらしく素早く言いました。
 「ごめんこうむる、秋までは葉を散らしたくない」
 どこかで猫が長く鳴いています。花がいっぱい咲く春です。

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